大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 平成5年(ヨ)2404号 決定

債権者

小石原巌

右代理人弁護士

志澤徹

債務者

日鐵商事株式会社

右代表者代表取締役

佐藤穰

右代理人弁護士

瀧川円珠

松崎正躬

主文

一  本件申立をいずれも却下する。

二  申立費用は債権者の負担とする。

理由

第一申立

一  債権者が債務者に対し、労働契約上の権利を有する地位にあることを仮に定める。

二  債務者は、債権者に対し、金一三〇五万三〇〇〇円及び平成五年九月一日以降本案判決確定に至るまで毎月末日限り、金八八万〇四九九円を仮に支払え。

第二事案の概要

一  債権者は、もと債務者会社の従業員であり、申立外富士機鋼株式会社(以下、富士機鋼という)に出向していたところ、平成三年九月三〇日、債務者会社に退職願(〈証拠略〉)を提出し、富士機鋼に移籍した。その後債権者は、右富士機鋼から、平成四年一一月二五日、雇用解除通知(〈証拠略〉)を受けた(争いがない)。

本件は、債権者が債務者に対し、債務者と富士機鋼との出向契約解除等により、債務者会社従業員としての地位に復帰したと主張して労働契約上の権利を有する地位の保全を求め、併せて平成四年一一月までの債務者会社と富士機鋼との給与差額四一五万三〇〇〇円と同三年一二月分賞与九八万円、及び同四年一二月以降、毎月八八万〇四九九円の給与の仮払を求めたものである。

二  主たる争点

1  債権者が富士機鋼に移籍したことにより、債務者会社の従業員としての地位を失ったかどうか。また、その後債務者会社従業員としての地位に復帰したかどうか。

この点につき、債権者は、本件移籍は、出向先の企業との労働契約の終了を条件として、出向元の企業の従業員たる地位に復帰する形態の移籍出向であったと主張する。

2  前記退職願に基づく退職の意思表示は、要素の錯誤があるものとして無効かどうか。

この点につき、債権者は、移籍後も債務者会社における五五歳当時の年間給与一〇五六万五九九〇円が支払われるものと誤信し、その旨表示して退職の意思表示をしたのであるが、実際に富士機鋼からは、右給与の約七〇パーセントに当たる年間七〇〇万円しか支払われなかった、と主張する。

3  平成四年一一月頃、債権者の請求により、富士機鋼と債務者会社間で、同年一二月一日以降、債権者を債務者会社の従業員として再雇用する旨の合意が成立したかどうか。

第三当裁判所の判断

一  当事者間に争いのない事実、疎明資料及び審尋の全趣旨によれば、以下の事実が疎明される。

1  債務者会社は、鉄鋼、非鉄金属及びこれらの原材料並びに製品、副産物、鉱石、鉱産物等の売買及び貿易を業とする商社であり、債権者は、昭和三五年四月、大阪鋼材株式会社に入社し、昭和五二年一一月、同社が債務者会社に合併されたのに伴い、債務者会社の従業員となった。

債権者は、開発室、国内営業担当役員付、鋼板担当役員付、日鐵リース株式会社出向等の部署を経て、平成元年一二月から、米国のライオグランデ大学の日本校開校準備のため設立された株式会社ライオグランデジャパンに出向し、平成三年二月一日から、名古屋市に本社を有し、普通鋼材、特殊鋼材の売買及び輸出入等を業とする富士機鋼に出向し、同社の東京支店長として勤務していた。

2  平成三年二月一日、債権者の富士機鋼への出向の際、債務者会社と富士機鋼との間に取り交された「出向者の取扱いに関する覚書」(〈証拠略〉)によれば、出向者の就業時間、休日、休暇等の管理、出張、移動及び職務の変更命令等は富士機鋼が行うものとされ、給与及び賞与の支払は債務者会社が行い、所得税の源泉徴収義務者及び住民税の特別徴収義務者、労災保険を除く社会保険の事業主は、債務者会社がなるものと約されていた。

3  債務者会社では、平成三年四月一日以降、定年を五五歳から六〇歳に延長することとなったが、これに伴い、五五歳以降の社員についていわゆる役職定年制を実施し、給与については、五五歳から五七歳までは五五歳直前の年収の八五パーセント、五七歳から六〇歳までは同六〇パーセント、五年間平均で同七〇パーセント前後とし、退職金については、退職一時金を五五歳到達時に、退職年金を六〇歳から各支給するとの案を実施することとした。そして、管理職については、極力関係会社や取引先会社への転籍を勧奨することとした。

4  債権者は、昭和一一年九月一二日生であり、平成三年九月末日の役職定年制到達が近づいてきた同年九月初め頃、債務者会社の人事担当常務取締役である鎌苅賢一(以下、鎌苅常務という)及び当時の人事部長である磐長谷勲(以下、磐長谷人事部長という)は、債権者と、五五歳到達時以降の債権者の処遇について話合の機会を持った。

その際、磐長谷人事部長らは、債権者に対し、前記役職定年制について説明し、参事(副部長)であり、管理職であった債権者について富士機鋼へ転籍することを勧めたところ、債権者は一応これを了承した。その際、磐長谷人事部長らは、債権者に対し、転籍後の債権者の年収は、五五歳到達直前のそれの七〇パーセントである七〇〇万円となる旨説明した。

これより先、債務者会社は、富士機鋼の播磨幸三郎専務取締役(以下、播磨専務という)に対し、平成三年一〇月以降、債権者を富士機鋼に転籍させたい旨の連絡を行っていた。

同年九月中旬頃、債権者は、鎌苅常務に対し、「富士機鋼は小企業であり、将来倒産する場合があるかも知れないが、身分保証はどうしてくれるのか」との申入れがあり、同常務は、「そのような心配はいらない、万一倒産するようなことがあれば考えるよ」などと述べたところ、債権者は、右回答を是非書面にしてほしいとのことであった。そこで同常務は、同月二五日、債権者に対し、手紙(〈証拠略〉)を渡し、その中で、「富士機鋼へ転籍の決心をした債権者に敬意を表する。万一倒産等不測の事態により債権者が職を失うようなことが起こった場合、出向者に準じた取扱をもって職場の確保に努力する」旨述べた。

こうして、債権者は、平成三年九月三〇日、債務者会社に対し、退職理由を「一身上の都合のため」とした退職願(〈証拠略〉)を作成・提出し、その際、退職一時金一五〇九万七〇〇〇円を受領した。なお、債権者は、六〇歳到達時以降、月額一一万五九〇〇円の退職年金の支払を受けることになっている。

同日、管理職で役職定年制に伴う退職勧奨に応じて退職(転籍)した者は、債権者以外にも四名いた。

5  債務者会社は、債権者の富士機鋼への転籍に伴い、住民税徴収事務のため必要な書類である「給与支払報告特別徴収にかかる給与所得者異動届書」(〈証拠略〉)に所定事項を記入したうえ、富士機鋼に送付し、富士機鋼でも所定事項を記入したうえ、同社において、これを江東区課税課に提出した。

また、債務者会社は、平成三年九月三〇日をもって、健康保険、厚生年金保険厚生年金基金の終了手続をとった。債務者会社は、債権者に対し、健康保険被保険者証を返還するように求めたが、債権者はこれを返還せず、債務者に無断で同被保険者証を使用して、病院等を受診した。

債権者に対する毎月の給与は、平成三年一〇月一日以降、富士機鋼から年額七〇〇万円になるように計算して支払われることとなった。

6  ところが、平成三年一〇月以降、債権者は、鎌苅常務に対し、再三に亘り富士機鋼から支払われる給与が少ない、すなわち債務者会社における五五歳到達直前の給与である年収約一〇〇〇万円に満たないとして、善処方を要請した。

7  平成四年八月頃、富士機鋼の播磨専務から鎌苅常務に対し、債権者の勤務成績が上がらないので、他の会社に転職斡旋してもらえないかとの要望があり、鎌苅常務は、債権者の希望も聞いたうえ、債務者会社の関連会社である西部鋼材株式会社(以下、西部鋼材という)に転職を斡旋しようとしたが、債権者は、債務者会社に一旦復帰したうえでなければならないと主張したため合意に至らず、同年一〇月頃、鎌苅常務及び磐長谷人事部長は、債権者を嘱託として債務者会社に再採用し、西部鋼材に出向する、役職は営業担当役員付部長で年俸七〇〇万円とする、支度金として三〇〇万円を支払う、との提案をしたが、これに対しても、債権者は、債務者会社の正社員として復帰しなければならないなどと主張し、合意に至らなかった。

8  富士機鋼の播磨専務は、平成四年一一月二五日、債務者会社において、債権者に対し、雇用解除通知書(〈証拠略〉)を交付した。同通知書には、解除理由として、「就業規則六三条一〇条(懲戒解雇事由―諸規則に違反し、その情状が特に重い時)による」との記載があった。

9  その後も、債権者は、債務者会社の人事担当の常務取締役である川原旦や副社長である貴田健に対し、更には会長である寺西宅まで訪問し、面談を求める行動に出た。

債務者会社は、平成五年八月一一日、債権者に対し、債務者会社の関連会社である株式会社京葉コイルセンター(以下、京葉コイルセンターという)に就職斡旋する、給与は年俸七二〇万円とする、支度金として三〇〇万円を支払う、但し富士機鋼を離職後の所得補填はしない、との提案をしたが、債権者は、依然として債務者会社に復職することに固執し、合意に至らなかった。

二  争点1について

右疎明された事実によれば、債権者は、平成三年九月三〇日、債務者会社に退職願を提出して同社を任意退職し、富士機鋼に転籍したものであって、富士機鋼から雇用契約を解除されたからといって、債務者会社の従業員としての地位に復帰することはないものと解するのが相当である。

債権者は、〈1〉右退職願は、債務者会社の親会社である新日本製鐵株式会社(以下、新日鐵という)から、債務者会社の出向社員が輸入鋼材を取り扱う富士機鋼の社員として勤務することについてクレームがついたため、形式的に作成・提出したものであること、〈2〉債務者会社は、債権者に対し、出向者懇談会の通知(〈証拠略〉)を交付していること、〈3〉鎌苅常務は、文書(〈証拠略〉)をもって、債権者に対し、出向者に準じた取扱をすることを約束していること、〈4〉債務者会社は、債権者が前記退職願を提出した際、債権者に対し、五五歳時の年額給与である約一〇〇〇万円の支払を保証し、富士機鋼から支払われる給与との差額支払を約束したこと、〈5〉債務者会社は、債権者の人事問題に関し、平成五年八月に至るまで、債権者と交渉していることを根拠として、債権者は、富士機鋼との労働契約の終了により、債務者会社の従業員の地位に復帰すると主張する。

しかし、右〈1〉については、債権者が担当していた取引先から、「新日鐵の直系商社である債務者会社の社員が輸入鋼材を取り扱うことはいかがなものか」との指摘があり、債務者会社は、債権者に転籍勧奨する際の一話題として、「そういうことなら名実ともに富士機鋼の社員となることが債権者として働きやすいのではないか」と述べたことが一応認められるものの、これが債権者が富士機鋼に転籍する直接かつ重要な契機であったとみることはできない。債権者の右転籍は、債務者会社でとられたいわゆる五五歳役職定年制の一環としてなされた退職勧奨、すなわち取引先への転籍に応じたものとみるべきである。

〈2〉については、出向者懇談会は、転籍者を含め、債務者会社出身者の親睦を図る目的で開催されるものであり、その通知が債権者になされたからといって、法的な意味合いを持つものとはいえない。

〈3〉については、鎌苅常務が債権者に対して渡した手紙(〈証拠略〉)は、富士機鋼が倒産する等不測の事態により職を失った場合、改めてその時点で債務者会社出身者に対する恩情的措置として何らかの対応をする旨書き送ったものというべきであって、あらゆる場合に在籍出向者と同様の取扱をする旨を約したものとは認められない。

〈4〉については、債権者の陳述書(〈証拠略〉)には、これに添う記載があるが、これに反する疎明資料(〈証拠略〉)に照らし、採用できない。債権者は、債務者会社が関連会社に再就職斡旋の提案をした際、支度金の名目で三〇〇万円の支払提示をしたことをもって論拠とするようであるが、疎明資料(〈証拠略〉)によれば、債務者会社が平成四年八月頃、西部鋼材へ就職斡旋の提案をした際には、同社が九州所在の会社であるので転居費用が嵩むこと等を配慮して右支払提示をしたものであり、同五年八月頃、京葉コイルセンターへ就職斡旋の提案をした際には、前回の提案を後退させることはできないとの考えから同様の支払提示をしたものであることが窺え、右事実があるからといって、債務者が給与差額の支払保証をしたなどということはできない。

〈5〉については、債権者が債務者会社に対し、執拗に五五歳時の給与保証や債務者会社への身分復帰を求めてきたことから、嘱託再雇用等種々の提案をしたことは前記のとおりであるが、右は、債務者会社の出身者に対する恩情的措置としてなされたものと解され、その間、債務者会社として、債権者が債務者会社の従業員であるとの前提で対応したことは一度もなかったことが窺われる。

よって、債権者の主張は、いずれも理由がない。

二  争点2について

退職の意思表示につき要素の錯誤があったとの主張については、前記のとおり、債務者会社が、五五歳時の年額給与である約一〇〇〇万円の支払を保証し、富士機鋼から支払われる給与との差額支払を約束したとの事実が疎明されない以上、債権者が、移籍後も五五歳当時の年間給与一〇五六万五九九〇円が支払われるものと誤信したとの事実も疎明されたということはできない。

三  争点3について

債権者は、富士機鋼の播磨専務から債権者に宛てたファックス文書であるという「連絡事項」と題する書面(〈証拠略〉)をもって、平成四年一一月頃、富士機鋼と債務者会社との間に、債権者を債務者会社の社員として再雇用する旨の合意が成立したと主張するが、債務者会社は、明確に右合意の成立を否定しており(〈証拠略〉)、これによって、右合意の成立を推認することはできない。右書面において播磨専務が債権者に対してした、「平成四年一一月二五日以降の勤務及び勤務場所は債務者会社人事部の指示を受けて下さい。平成四年一二月以降の給料は、債務者会社で支払する予定なので、保険の手続を債務者会社で行って下さい」との指示は、前記のとおり、その頃、債務者会社から債権者に対し、債権者を嘱託再雇用し、関連会社へ出向させるという提案がなされていたことから、その話合が進展し、やがて合意に至るとの見込みのもとになされたものと解される。

よって右合意を疎明するに足りない。

四  以上によれば、債権者の本件申立は、被保全権利について疎明がないというべきであるから、失当として却下することとし、主文のとおり決定する。

(裁判官 吉田肇)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例